7/30/2016

msb ニュースレター July



夏ですね。大入道が拳を上げているような雲が青空を意気高く占拠し、暑さも本格的になってきました。やっぱり夏は海や山にバケーションに出かけるのが一番。また、日本に行かれる方も多いと思います。夕涼み、風鈴、夏祭り、お盆、かき氷、夏は帰省の季節でもあります。暑さ負けなどしないで、元気に夏を過ごしましょう。

《支部展について》
今回の支部展では、クラフト展を予定しています。これは2週間の期間中、展示している作品とは別に、11月12日の土曜日の一日限りの催しとなります。
名付けて「クラフト展」。ジュエリー、陶器、織物、布による製品(バッグ、スカーフ、テーブル•トップなど)、その他ルームアクセサリー、絵画、習字、など。
日系新聞、その他の方法で広報活動、宣伝をし、展示即売会を致します。販売に関しては、作品制作者本人が会場にいることが必須です。
この「クラフト展示即売会」については時期が近づきましたらまた、改めてお知らせします。11月ですので、クリスマスギフトにちょうど良い時期かと思います。

支部展に出品する方は8月15日までにご連絡下さるようお願いします。
作品サイズは昨年と同じくらいです。立体作品の場合は平面のサイズは12インチ四方以内くらいに収めて下さい。(高さについては余裕があります)
また、オープニング当日、パフォーマンスなどをして下さる方も募集しています。


《山村みどりさん、「YAYOI KUSAMA INVENTING THE SINGULAR」を出版》
山村みどりさん(Midori Yamamura Ph.D)

山村みどりさんは学部日本画を卒業されました。現在はMoMa講師、Fordham Universityの講師の他、
日本学術振興会、特別研究員(The Japan Society for the Promotion of Science, Post doctoral Fellow)
東京文化財研究所勤務(National Research Institute for Cultural  Properties, Tokyo)
など、幅広く活躍されています。
そして昨年、MIT Pressより、表題の「 YAYOI  KUSAMA INVENTING THE SINGULAR」を出版されました。アマゾンなどで入手可能です。

草間彌生は日本で第二次世界大戦後に輩出した最も重要なアーティストの一人です。1957年に渡米し、1960年代初頭にはアンディ•ウォホール、ドナルド•ジャッドなど、ポップアートやミニマルアートの有名なアーティストと共に作品を発表しています。過激なパフォーマンス、反復パターン、縫製によるソフト彫刻は草間彌生の代表作。
そして1973年、アートの為にと、日本に戻ると精神疾患であること、精神病院に永住することを公表しますが、このことは草間を有名にしました。
山村みどりさんは、通常言われているこれら草間の魅惑的な評論を控えて、草間のキャリアに新しい展望を見いだすことをこの本で試みています。本は英語ですが、新しい草間彌生の視点を提供する、興味深い仕事です。


《瀬戸内国際芸術祭 2016》
今月は校友会メンバーの依田寿久、順子ご夫妻のご子息、洋一朗さんの参加されている、瀬戸内国際芸術祭2016(Setouchi Triennale 2016)のご案内と、依田洋一朗さんの作品をご紹介したいと思います。

─海の復権、舞台は瀬戸内の島々─
古来より交通の大動脈として重要な役割を果たしてきた瀬戸内海。大小、沢山の島々が浮かぶ美しい景観、内海ゆえの穏やかな海。行き交う船は島々に立ち寄り、文化の交流が行われ、それぞれの島は固有の文化を培ってきました。しかし今日、世界のグローバル化、効率化、均質化の流れの中で、島々の人口は減少し、高齢化が進み、島の固有性は失われつつあります。美しい自然と人間が交錯し交響してきた瀬戸内の島々に活力を取り戻そうと、瀬戸内海が地球上すべての地域の「希望の海」となることを目指して、瀬戸内国際芸術祭が開催されることになりました。

─ここに現代アートの祭典あり─
芸術祭は3年に1度開かれ、今年で3回目。春、夏、秋の3期を通じて開催され、今年は34の国と地域から226組のアーティストが参加しています。
11の島と高松港、宇野港が会場です。島々を船で渡ってそれぞれの島に行き、アートを鑑賞するかたわら、島の文化、瀬戸内の地の旬のものも味わうという島旅も兼ねているところが楽しい。
今年は「アジアとの交流」や「食」がテーマ。夏には、「瀬戸内アジア村」の開村、タイの伝統人形劇が披露されたり、無国籍レストランやアジア各地の大道芸、ダンスなども催され、芸術祭をさらに盛り上げています。

─依田洋一朗さん、映画館を模したアート、女木島にレトロ「名画座」を作る
42丁目、終焉の日々
依田さんがまだフィラデルフィアのTyrer School of Artの学生だった1994年冬、大学からバストリップでニューヨークのメトロポリタン美術館へやって来た時のことです。バスはマンハッタンに入り、アップタウンに行くところでバスの運転手が道を間違えてしまい、タイムズスクエアーに入り込んでしまったのです。車窓から通りを眺めていた洋一朗さんは、その時にはもう使われていなかった42丁目の通りに続く、古びた映画館やシアターの群れに強く心を揺さぶられるものを感じたのでした。そして洋一朗さんはその日から42丁目の古いシアターの虜になりました。
1994年はニューヨーク市長のルドルフ•ジュリアニが、Gentrification(街の美化、高級化運動)を始めた頃で、汚い建物、貧民街が次々に取り壊されていました。そして、
42丁目の映画館街も、42nd Street renovation Project の中に組み入れられ、その運命を待っているところでした。

懐かしい場所に、僕は帰ってきた 
42丁目は、1893年に出来たプレイハウス(劇場、)アメリカンシアターを皮切りに、次々に劇場がオープンしてシアター街になっていきます。当初は42丁目といえば金持の行くところだったのですが、1930年の世界大恐慌の後になると、それらの劇場は映画館に変わっていき、大衆の街となり、次第に風俗街になって行きました。
洋一朗さんは冬期休暇でフィラデルフィアからニューヨークへ戻っていた間にカメラを持って無人の映画館街に行ってみました。42丁目の通りに14軒以上も続く映画館の一つに中に入れそうな映画館を見つけました。ドアには鍵がかかっていませんでした。そっと忍び込むと、中からカビ臭い匂いが漂ってきました。外は喧噪のタイムズスクエアーなのに、中はシーンという音に満たされて、外界とは全く別の空間のようでした。しばらく佇んでいると、かつて人々が賑わい、活気があった映画館が蘇ってくるようでした。煤けたスクリーンの上には往事の俳優たちが現れては消え、また新しい物語が繰り返されていました。その時、映画館が「お帰りなさい」と言っているような気がしたと洋一朗さんは言います。
洋一朗さんは夢中でカメラのシャターを切りました。
ある時、夕方になって行くと、中には電気がついていました。暗いままにしておくと、
浮浪者などが入り込んで住み着いてしまうのを避けるためのようでした。
そうやって何度か行っているうちに、「自分の故郷に帰ってきた」という安らぎを覚え、行く度に今は亡き俳優たちが現れて自分を迎えてくれている、と思われるのでした。

消え行くものへの憧憬をビデオに収める
それから直ぐに洋一朗さんはUrban Development Corporationに連絡を取り、取り壊しのスケジュールに入っている他の映画館を見せてもらうことにしました。とはいってもそう簡単に彼の希望が受け入れられたわけではなく、しつこく電話をしての末でした。
「取り壊しが始まると、とにかく腹が立って仕方なかった。でも誰も反対運動をしない。僕と一緒に反対してくれる仲間もいない。悔しかった。それなら、僕に出来ることをしよう。写真に撮ること。ビデオに収めること。そして絵に描くことを」
そうしてしつこく食い下がっていざ彼の要求が受け入れられた後は、館内をいろいろと案内してくれる人がいて、思う存分ビデオカメラをまわすことが出来ました。1930年以前は全てPlayの劇場だったので、ほとんどは映画館に作り直す時にボックスシートなどは取り壊したのですが、中にはそのまま残っている建物もあり、それらはついこの間まではポルノ劇場だったと案内の人が教えてくれたり、往時を頭の中に描きながらビデオを撮ったと依田さんは言います。それらのビデオは「42丁目、終焉の日々」として、瀬戸内国際芸術祭の依田さんの作品、「女木島名画座」で上映されています。

瀬戸内国際芸術祭に応募する
この時から依田さんは古い映画館や劇場をテーマにした絵画を制作するようになります。劇場の中で集う人々、ベンチに腰掛けて開演を待つ人。映画の中のシーンや俳優の肖像画。歴史を蘇らせるそれらの画は、まるで物語を見ているようです。
アメリカ国内や、日本でもそれらの絵画作品を発表しながら、いつか42丁目のシアターを再現したいという夢は、美大の学生だったあの冬の日、歴史の裏通りに消えて行くものに対して激しい哀惜の思いを寄せたその日から20年後に、ついに実現する日がやってきたのです。
瀬戸内国際芸術祭参加に公募があると知って名画座再生の案を応募してみようと考えたのは数年前。見事入選してから女木島にあった古い倉庫を使うことが決まり、建築家が選ばれ、ミニチュアを作り、島の小エビ隊の人々、村の人たちも名画座作りに手伝いにやってきました。
依田洋一朗さんは彼が生まれる数年前にニューヨークに移り住んでいた両親が、彼の出産の為にお母さんの順子さんが彼女の故郷、高松に帰ってきて生まれたので瀬戸内が彼の出生地。生まれた場所に彼の20年間の思いを実現したのですだから応募にはストロングな意味があったのです。

女木島名画座の完成
実際にあったシアターを再現するプロジェクトなので、映画館の外観には「ISLAND  THEATER MEGI 名画座」のレトロな看板がかかり、ロビーの壁は40点もの銀幕のスターたちの「ブロマイド絵」で埋め尽くされています。エントランスで観客を待っているのはチャプリン。スクリーン横の壁には同じく銀幕のスターなど、かつてのシアター街のエッセンスを凝縮した絵を描きました。階段を上がるとかつて42丁目にあった「リバティー•シアター」をモデルにしたプロセニアム•アーチと、赤い布地張りのボックス席が幻想のように現れます。
この椅子は何とロスアンゼルスからはるばる船で運ばれて来た椅子なのです。昔の椅子が欲しくて古いシアターを探していると、ロスアンゼルスにあるシアターで、椅子を新しくするという情報を聞き、連絡してみるとシアターの中はすでに新しい椅子に変えたけれど、古いのがまだいくつかは倉庫に残っているという。すぐに写真を送ってもらって購入を決めました。女木島に着いた椅子たちの包装を取ってみると、赤い布張り、鉄の脚の椅子が出てきました。「感動だった」そう言うと、洋一朗さんは満面の笑みを浮かべました。

歴史とは記憶すること
「古いものがなくなると時代がわからなくなる」「42丁目は、これぞニューヨークという存在。女木島にそのシアターを持ってくることは、無くなったものを取り返すような感じで、とてもうれしい」
それはもとのままのシアターではない。しかし、かつてあったものの記憶として、失われていく時代を記憶しようという、洋一朗さんの切羽詰まった情熱が、海を渡り、遠い瀬戸内海の島で人々に新しい夢を見せてくれるのです。
瀬戸内国際芸術祭、公式ウェブサイト(Official Website)   http://setouchi-artfest.jp/
依田洋一朗ウェブサイト(女木名画座が見られます)www.yoichiroyoda.com

《神舘美会子、第3回ピースプロジェクト「PEASE 2016」グループ展に参加》
第3回目となるピースプロジェクトは、インターナショナルセンターのアートショー専任コーディネーター•うちだかずこ氏の企画•キューレートによるもので、今回、神舘が参加することになりました。
広島•長崎を見据え、反戦•反核をアートで伝えるグループ展「ピース2016」は、来場者とともに平和を考え、次世代への記憶の引き継ぎを試みるものです。

ピース2016──PEACE 2016
会期: 8月5日(金)─8月26日(金)
開廊時間:月曜─金曜 午前11時─午後7時
オープニングレセプション:8月9日(火) 午後5時30分─7時30分
会場:INTERNATIONAL CENTER OF CCCS
80 Meiden Lane 14th Floor New York NY 10038
(Subway 2/3 train to Wall Street, 4/5. J/Z. A/C to Fulton Street)

《キノマホさん、Christie’s 17TH annual staff art exhibitionUNTITLED”に参加》
会期:7月28日(木)─8月10日(水)
開館日程:月曜─金曜 午前9時─午後5時
オープニングレセプション:8月2日(火)午後6時─8時30分
会場 “Christie’s
20 Rockefeller Center, Gallery Ⅵ(6)
(between 50Street & 49Street , and 5th Av & 6th Av)